2月
スケッチ
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体調を崩して、予定の大幅に狂った2月。。。
子供と絵の具で絵描きあそび。
リフレッシュする。
まず色を手に入れる。
どんな色が私の手元にあるのか。
そして、それを使って何を作るか。
遊びながら考えていた。
色だけでも、だめだけど
やっぱり色がなければ、何も始まらない。

体調を崩して、予定の大幅に狂った2月。。。
子供と絵の具で絵描きあそび。
リフレッシュする。
まず色を手に入れる。
どんな色が私の手元にあるのか。
そして、それを使って何を作るか。
遊びながら考えていた。
色だけでも、だめだけど
やっぱり色がなければ、何も始まらない。
仕事としての
染めの精度を上げるための試験。
今のベストを作ること。
しかし、一気に深追いは禁物だと自戒。
体力のこともある。
雨城先生も曰く
「出来たと思ったときは、死ぬとき」
いろいろな思いで、この言葉を毎日かみしめる。
「前田雨城先生は、誰にも一切染め場を見せないし、
染めているところを公開していないんです」
と、話したら、、、
「え?じゃあ、どうやって習ったのですか?」と
鋭い質問を頂きました。
「それは、自分で修行するんです。」
そう、先生の染めた色を見て、技を盗むしかないのです。
古代の色は、色が、色相も、質感も、全然違うから
自分で出来ているのか出来ていないのかは
比べればわかることで、盗めるまでやるかやらないか
それだけなんです。
一色一色、研究していくしかないのです。
もう、後戻りは出来ないので、続けているだけなんです、、、。
何度も何度も、思わぬ結果になる度
裏切られた感じがしたモノだけれど
それは違うんですよね。
人間の予測のほうが、間違っていたり
検査方法が甘かったから
違う結果になるだけなんです。
この一年、何をしていても、紫のことで頭がいっぱいだった
探求が、出来る時間も出来ない時間も
なにかしら紫のことを考えていた。
薬効としても
色としても
染料のきむずかしさも
一級品である
紫まで、私の手と足と頭は、届きたかったから。
古伝の肝心な部分は最初と最後。
本日、最後の仕上げ。
これが不安。目に見えない仕事なので。
私はまだひよっこだ、、、。
あ、でも、この後が本当の仕上げか。
風にさらす。月日のかかる仕上げ。
どの仕事の一見全く目には見えないが、
結果はそのうち、わかる。
落ちるか落ちないか。擦ればわかる、
これが結論。
何かって言うのは、色ではない。
何かが付いているのが、大事なのに
それはうっかりすると見えなかったりする。
それが、軽くあしらって結果を急ぐなら
全ては水の泡。
(なので、生徒の皆さん、がんばって下さい)
「何かは付く」これは、
前田雨城先生の明言中の明言だと思っているのです。
雨城先生に習ったことの中で、一番の衝撃は
染色原理のこと。
なにしろ、(ある意味当然だが)
染色における定説は未だ無いのだ。
それどころではない、、、
発色機構さえ、いまだにはっきりしていない。
なにしろ、つまり、本気で色についてやるならば
アインシュタインが出てこなければならない。
色は光と一体なのだ。
原子は実は光を出している(蛍光を出す)ことが
人間の手では全くの黒を生み出せない
ことにつながっていたりする。
色について探求をし始めると
物質で何?光ってなんだ?、、という
宇宙の謎に挑むことと同じ事になってしまう。
ということで、とにかく、
理論は仮説なのだ。
でも、仮説であっても、理論は大事だ。
雨城先生の理論(仮説)は私にとって衝撃だった。
そして実感したことは、
理論という物語を人は必要としている。
それがあとで間違っていたとしても
今を生きる人にとって、今通じる形で
理論になっていなければ、
私たちは、染めの今を生きることは出来ない。
昔語りでは、だめなのだ。
だから、なるべく具体的に、
染めの理論が頭と体に入っていくように
現代では化学式や、科学的説明が非常に求められると思う。
それを作り上げて下さった先生に感謝。
(それでも本当は、
草木の和魂を全て取り出して、完全に布に移す
水と火、土や風を知り、それの力を十全に用い、
その力で完全に止める
という、古代人の草木風水土に対する
感性、探求、哲学のほうが、
100倍はすごいのだが)